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Column de saison

ブラッスリーとギャルソン-ジャン=ポール・サルトルの場合 (1)

家族や友人あるいは恋人とリラックスした時間を過ごすカフェやブラッスリーに欠かせない存在がギャルソン garcon de café でしょう。ギャルソンはお客さんが楽しい雰囲気の中で、美味しいお料理や飲み物に心置きなく舌鼓を打てるよう、ジャストな頃合を見計らって注文されたお料理や飲み物を給仕し、気の効いた会話で場を盛り上げてくれます。

ところで20世紀を代表するフランスの哲学者であり小説家でもあるジャン=ポール・サルトルは、実存主義ブームを巻き起こした『存在と無 – 現象学的存在論の試み – 』の中で、ギャルソンを活写しています。彼はボーヴォワールとの契約結婚でも有名ですが、サンジェルマン・デ・プレの有名なカフェ、フロールに入り浸っていました。カフェを注文し、シガレットを燻らせ、店内を華麗に行き来するギャルソンの身のこなしを観察しながら、彼の著作を読み解くための鍵となる哲学概念の一つ「自己欺瞞 la mauvaise foi 」を描き出すのにギャルソンを引き合いに出したのでした。

サルトルは眼鏡の分厚いレンズを通して、ギャルソンの動きをこのように細かく分析しています。

「彼(ギャルソン)は、活発で執拗な、少々正確すぎ、少々敏捷すぎる動作で、少々活発すぎる足取りで客たちの方へ行き、少々過剰な熱心さで身を屈める。彼の声と目は、客の注文に対して少々過剰な心遣いに満ちた関心を示している。そうして彼は戻ってくるが、彼はその歩き方の中で、何かしら自動人形のようなぎこちない几帳面さをまねるかのように、軽業師のような無謀さでお盆を運んでくる。常に不安定で常に乱される均衡の中でお盆を置き、腕と手の軽やかな動きで、その均衡を常に取り戻すのだ。彼のあらゆる行為は、われわれにはまるでゲーム un jeu のように見える。彼は一心に、自分の動きを、あたかもそれらの動きがたがいに制御しあっている機械仕掛けのようにつなげようとしている。彼の身振りや声までが機械仕掛けのように思われる。彼は現実の冷徹な敏捷さと迅速さを己に与えているのだ。」

実はサルトル哲学において、「演技=ゲーム un jeu 」という概念が重要な役割を果たしており、その概念を説明するのに、ギャルソンをあたかも「人間を演じる機械」もしくは「機械を演じる人間」のように描写しているのです。(続く)

le 10 mai 2014
cyberbloom
 

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